2013年09月23日

『半分のぼった黄色い太陽』 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 著




『半分のぼった黄色い太陽』
 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 著
 くぼた のぞみ 訳
 河出書房新社

内容
犠牲者数百万といわれるナイジェリアのビアフラ戦争。この内戦の悲劇をスリリングなラブストーリーを軸に、心ゆさぶられる人間ドラマとして描く。最年少オレンジ賞受賞。映画化。
(河出書房新社ウェヴサイトより)


ナイジェリアで1960年代後半に起こったビアフラ戦争を背景に、人々の苦難や愛憎が描かれる。

著者はナイジェリアの若い女性作家で、本作は29歳の時に出版され、最年少でオレンジ賞を受賞した。


視点人物は3人。

農村で生まれ育った少年ウグウは、大学教授オデニボの家にハウスボーイとしてやとわれ、知的な生活に魅了される。

ラゴスの裕福な家庭の娘オランナはロンドン大学を修了して帰国したばかり。オデニボの恋人として一緒に住み始める。

イギリス人のリチャードは、イボ族の美術品に惹かれてナイジェリアに住み着き、オランナの双子の妹カイネネと恋に落ちる。(リチャードのヒントとなったのはフレデリック・フォーサイスだとか。)

この三人を軸に、ナイジェリアの諸相が描かれていく。

人間模様もおもしろいし、戦争やナイジェリアの状況についての記述もいろいろと興味深かった。
アフリカ人自身の視点でアフリカについて描かれたものは読む機会が少ないと思うので(私が知らないだけかもしれないが)とても興味深かった。


アディーチェは1977年生まれの若い作家で、戦後の生まれだけど、祖父を二人とも戦争で亡くしたそうだ。
ビアフラのことはナイジェリアではかなりタブー視されているそうだが、家族などに当時の話を聞いて、時代を再現している。
本書の出版によって、ビアフラについて語る気運が生じてきたそうだ。

知識人階級が中心に描かれるので、戦争や飢餓の悲惨さはあまり前面に出てこない。
戦争の全体を描くというより、家族小説、恋愛小説としての面が強いと思う。


http://www.ted.com/talks/chimamanda_adichie_the_danger_of_a_single_story.html
TEDでのアディーチェの講演。“シングルストーリーの危険性”
日本語字幕も選択できる。NHKで見る必要ないんだな。
シングルストーリーがアフリカについての固定観念を生み出す危険性を語っている。
実は私自身、この小説を読み始めたとき、自分が勝手に持っていたイメージと違って戸惑ったのであった。
私もステレオタイプにとらわれていたのか。


新聞などでアフリカについての記事を読むと、たいてい「日本の報道は飢餓や紛争に偏りすぎ」とか、逆に「飢餓や紛争から目をそらしてはいけない」とか、記者の不満が前置きされている。それだけ日本では情報が少ないということだろう。
小説を読むことで、生きた人間をとおしてアフリカの多様性を知ることができると思う。



小説中に出てくるレックス・ローソンの「ビアフラ、万歳、自由の国」ってこれかな。
レックス・ローソンはハイライフ(西アフリカを中心に人気のポピュラー音楽ジャンル)のスターだ。
≪本書から引用≫
「レックス・ローソンは本物のナイジェリア人です。カラバリという民族性に執着せず、ナイジェリアのすべての主要言語で歌っている。そこが独創的だわ−−彼を好きになる十分な理由だわ」とミス・アデバヨがいった。
「そこが彼を好きになれない十分な理由だな」とオデニボ。「われわれは自分の文化に無頓着であるよう志向すべきだなんて、そんなナショナリズムは馬鹿げている」
(131ページ)
このような議論が読めるのもこの小説の魅力だ。文化、歴史、政治について、オデニボの居間に集ったインテリたちが語る。


ナイジェリアやビアフラ戦争については、訳者あとがきに説明があるので、この小説を読むためにはそれで十分かと思う。
私は一応ネットで予習して、下記の本を手元に置いておいた。
ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 (ヒストリア) 室井義雄 著
拾い読みしただけだけど、一般向けにわかりやすく解説されていると思う。
地図や写真も載っているので小説を読む際の参考になる。

読んでないけどフレデリック・フォーサイスもビアフラについて書いている。
『ビアフラ物語―飢えと血と死の淵から』 (角川選書 123)



なおナイジェリアの小説については、以前にチヌア・アチェベの『崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩』の感想を書いた。 http://dokushoburogu.seesaa.net/article/223083329.html
アディーチェにとってチヌア・アチェベは大事な作家のようだ。エピグラフにも彼の本の一節が掲げられている
インタビュー(BBCのトーキングブックス)によると、アディーチェは子供の頃、イギリスの児童文学のような小説を書いていたが、チヌア・アチェベなどを読み、イングランドの子供たちではなく、自分たちの物語を書いても良いのだと承認されたような気がしたそうだ。

エスペランサの部屋
翻訳者くぼたのぞみさんのサイト
『半分のぼった黄色い太陽』の映画化情報などもある。先日のトロント映画祭でプレミア公開されたそうだ。



半分のぼった黄色い太陽/関連地図
https://docs.google.com/file/d/0B6KGS3ACknt6YjY1N2E4OTctN2IwNy00NDY4LWExNzUtOTU4ZDVkOWQwMGE3/edit?hl=en&pli=1
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2013年07月28日

『マルテの手記』 リルケ著





『マルテの手記』 リルケ著

積ん読状態が生涯続くものと思われた『マルテの手記』だが、「貴婦人と一角獣」展を見たのをきっかけに読むことにした。
『マルテの手記』中の、このタピスリーを描写した文章が展覧会場にも掲げられていた。

この美しいタピスリーをみることができたのもうれしかったけど、おかげでリルケに出会えたのも同じくらいうれしかった。

リルケという名前のせいか、リリカルで蝶よ花よみたいな感じの小説かと勝手に思っていたのだけど、想像とはかなり違った。

孤独と不安に満ちた恐ろしい小説だった。

『マルテの手記』は1904年から1910年までにわたって書かれた小説で、デンマーク貴族出身の無名詩人、マルテによる手記という設定。
マルテはリルケの分身という面もあるようだけど、自伝ではない。
統一したストーリーはなくて、パリでの苦悩に満ちた生活、子供時代の思い出、歴史や聖書のエピソードをめぐる考察などが、脈絡なくつづられる。

詩人の非常に鋭敏な感性がとらえた諸々の事象が、とても喚起力の強い硬質な文章で語られる。
磨き込まれた宝石のような芸術品、というたとえはちょっと違うか。さわると怪我をしそうなあちこち尖ってひび割れた宝石、というたとえはいかがでしょう(下手なたとえはやめたほうがいいか)。

読みやすくはないけれど、エピソードや描写がとても印象的なので、退屈とは無縁だった。

岩波文庫版(望月市恵 訳)で読み始めたけど、途中から新潮文庫版(大山定一 訳)と併読した。
読み比べてやっと意味がわかったり、まったく別の意味に訳されてて首をひねったり。
新潮文庫版の方が若干読みやすいと思う。
岩波文庫版のほうが鋭い感じで、ちょっと好きかな。
原語もかなり難解らしいので、読みにくいのは翻訳が悪いわけじゃないと思う。


堀辰雄の『風立ちぬ』は、途中からいつの間にか別の話になっていたりして、不思議な構成の小説だなあと思ったのだけど、今思うと、リルケの影響だったのかもしれない。
青空文庫には堀が訳したリルケがたくさん載ってる。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person75.html#sakuhin_list_1
『マルテの手記』は部分訳。Kindle にも載ってるけど部分訳のはず。「マルテの手記」堀 辰雄 訳



ジョルジュ・サンド作『ジャンヌ』
これにも「貴婦人と一角獣」についての記述がある。
これも読もうかな。でもネットで見た限りでは評価が高くないようだ。
代表作の『愛の妖精』を先に読んだ方がいいかな。


ところで・・・タピスリーでは一角獣と獅子はほぼ同じ比重で描かれているのに、何で一角獣ばかりが強調されるのだろう。テレビや雑誌の解説でも獅子はほぼ無視されていたが。

ikkakujuu.jpg
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2012年07月13日

ジューチカとペレズヴォン 『カラマーゾフの兄弟』より


『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー 著 米川 正夫 訳 岩波文庫 


十代の後半に『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んで以来、ジューチカとペレズヴォンは同じ犬なのか、それともよく似た別の犬なのか、という問題は、私にとって大きな謎となっている。

最近、下記の二つのブログ記事でこの問題を検証しているのを見つけ、ついに長年の疑問が解き明かされるのか、と期待して読んだ。

横板に雨垂れ 朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」 補足1 − ジューチカとペレズヴォン
連絡船 (一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ね

どちらの記事も「同じ犬」説を強く主張しているのだが、残念ながら、そこでは実証的とは言い難い主観的な文章が並ぶのみで、とても納得はできなかった。
両記事から判断するに、お二人は亀山郁夫氏の解釈を読むまでは、ジューチカとペレズヴォンが違う犬だという可能性をまったく考えていなかったようだ。だとすれば『カラマーゾフの兄弟』の中でもとくに美しいこのシーンを読んだときの感動はいかばかりだったか、想像に難くない。その感動を亀山氏に汚された、という怒りが、お二人の文章を過剰に攻撃的なものにしているのだろうと推測する。
(ただしブログの他の記事は読んでいないので、亀山郁夫氏への彼らの怒りが正当なものかどうか、私には分からない)

お二人の意見は、わたし流に平たくまとめれば「コーリャ・クロソートキンがそんなひどいことするはずがない!」「それじゃイリューシャがかわいそすぎる!」と言うことだと思う。
その気持ちは分かるし、同じ犬だとそこまで強く確信できるなら、それはむしろうらやましいことである。
私にしても、同じ犬であってほしい、とどれだけ強く願ったかしれない。確証を求めてすがるように小説を読んだことを思い出す(ちなみに、私が読んだのは米川正夫訳による河出書房版世界文学全集11)。
しかし疑いは晴れず、「少年の群」の、ひいては『カラマーゾフの兄弟』の印象に、あいまいで不穏な影が差すことになってしまった。

私はあえてひねくれた読み方をしたつもりは全くない。ドストエフスキーを読んでいるときの私以上に真摯な私が他にいるなら教えていただきたいくらいである。
亀山氏や私に限らず、ごく「普通」に読んで、同じ疑念にとらわれた読者は多いと思う。
どちらの読み方がより「普通」であるかを争うつもりはないが、別の犬だという可能性を思いつくだけでも愚劣である、と決めつけられるのは業腹だ。

亀山郁夫氏にしても、解釈の可能性を示しただけであり、別の犬だとはっきり主張しているわけではない(上記ブログの引用文から判断する限り)。それすら許されないというのであれば、研究者に研究するなと言うようなものだろう。
私は亀山氏の翻訳は好きではないし、氏の読みに納得できないこともあるが、少なくともジューチカ=ペレズヴォン問題について言えば、亀山氏への非難は私への非難でもある。

よって、私なりに思うところを書いてみたい。
自分に何かを証明できるとは思っていないが、考えを整理してみるのも悪くなかろう。

なお、この記事を書くために『カラマーゾフの兄弟』全編をきちんと読み返したわけではないので、あるいは見当違いの意見もあるかもしれない。



イリューシャの病床におけるジューチカとの再会は、確かにとても美しい場面であるが、その美しさは偶然によって支えられていることに注意すべきであろう。
つまり、
1.ジューチカは死なずに生きていた。
2.生きていたジューチカを発見したのはコーリャだった。
この二つの条件がそろわなければこの場面は成立しないのだ。
針を含んだパンを食べたジューチカが、死ぬか、回復不能な怪我を負う可能性はかなり高かったはずだ。
ジューチカが生き残ったのは幸運にすぎない。
また、それを発見したのがコーリャである必然性はない。他の子供や父親に比べてコーリャの行動力、判断力が卓越しているだろうことを思えば確率的には高くなろうが、やはり偶然である。

偶然に由来する美しい場面。これはメロドラマというべきではないか。
むろん、ドストエフスキーはメロドラマ的な手法をしばしば使う作家ではある。
しかし、物語の一つの極みともいえる重要な場面に、幸運がなければ成り立たないような美しい状況をもってくるだろうか。ジューチカの生死が決定的に重要となっている所へ、"たまたま”生き残っていたジューチカが突然現れる−−。
ドストエフスキーはそんなに甘い作家だったろうか。
疑問の余地はあると思う。
(もっともドストエフスキーのことだから、獣医に聞くなり実験するなりして、犬が生き残る可能性を把握した上でこの事件を描いたのかもしれない。また、他の子供たちがジューチカを探し始める前にコーリャが発見していたのだとすれば、それを偶然の所為というわけにはいかないか)

地の文でこの犬の名をジューチカと記した部分が一つもない(たぶん)ことにも注意したい。イリューシャにとってはこの犬はジューチカなのだから、イリューシャに抱かれているときくらいは「ジューチカ」と記してもよさそうに思えるが、ドストエフスキーは注意深く(?)それを避けている。地の文では常に「ペレズヴォン」または「犬」である。

イリューシャが別の犬をジューチカと思い込むはずがない、と言う人もいるかもしれない。
しかし、ジューチカはイリューシャの飼い犬でも何でもなかったことをお忘れではないだろうか。イリューシャが可愛いがっていたという記述すら無いはずだ。
ピン入りのパンを食べさせたという事件によって初めて、ジューチカはイリューシャと結びつき、特別な犬になったと考えていいだろう。
よって、特徴が一致する犬をジューチカと誤認したからといって、イリューシャの不注意を責めることは出来ないのである。


ブログ「連絡船」の記事で唯一客観的論拠が示されていたのは下記のくだりである。別の犬をジューチカの替え玉に仕立てるには、ひと月では短すぎることを指摘されている。

−以下引用−
仮にジューチカがペレズヴォンでなかった場合、ジューチカの「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのをですよ、現実的にこのひと月の間にどうやってべつの犬に再現できるというんですか? 実際に誰かが ── いったい何だって亀山郁夫はそれを誰といわないんですかね。こういうものいいが亀山郁夫の文章の特徴で、彼の小ささ・せこさ・薄っぺらさをよく示しています。翻訳者、専門家、研究者が一般読者(の啓蒙)に向けてこんな思わせぶりなものいいをしてはいけません ── 「ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶした」としたって、それはまだ生傷ですよ。そんなことは見ればすぐにわかります。で、ジューチカの同じ特徴がまだ新しかったのかどうか、そんなことは書かれていません。そもそも、「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのは、実際にはどういうふうだったんでしょう? どんなものであれ、それをそのままべつの犬に再現することなど誰にも不可能ですよ。しかも、どこからか連れてきたその犬に傷の再現もし、さらになつかせるわけでしょう、ひと月の間に。
−引用終わり−

(途中の罵言は聞き流すとして)確かにひと月では短いように思える。
しかし、この「ひと月」という期間は果たして正しいのであろうか。
「それは一箇月前に突然どこからか連れて来た、」と地の文で説明している以上、これは事実とせねばなるまい。
だがコーリャ自身は次のように言っている。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」
「あのとき、すぐに」というのは、「ジューチカが失踪した後すぐに」ということであろう。
だとすれば、コーリャが犬を見つけたのは二ヶ月以上まえだったことになる(失踪がいつ頃のことか、はっきりは確認できなかったのだが、石投げ事件が二ヶ月前、へちま事件がその一週間前、ジューチカ事件はさらにその数日前である。二ヶ月半程度だろうか)。

つまり犬を発見してから自分の家に連れてきて飼い始めるまでに、約一ヶ月の間があることになる。このギャップをいかに捉えるべきだろうか。
もちろん、単にコーリャが嘘をついたか、言い間違えただけかもしれない。または「あのとき」が一ヶ月ほど前にあった何か別の契機を指しているのかもしれない。

しかし、次の可能性も考えられる。

もし、二ヶ月ほど前ににコーリャが発見したのがジューチカの死骸だったとしたらどうだろう。そしてその特徴にあう犬を見つけ出し、同じ箇所に傷を付ける。
その傷がある程度癒えるまでの一ヶ月間は、誰かの家に預けておき、その後自分の家に引き取ってさらに一ヶ月待つ。

こう考えれば、コーリャがせっかく見つけたジューチカを隠して飼い、芸を仕込んでから披露する、といういかにも不自然な行動にも説明が付く。傷口が新しいうちは他人に見せるわけにはいかなかったのである。
また、眼や耳を傷つけられて人間を怖がっているだろうペレズヴォンを、人に馴らす時間も必要だったろう。芸は目的ではなく、人に馴らす過程における副産物にすぎなかったかもしれない。

また、犬(の死骸)の発見が二ヶ月以上前だとすれば、先に疑問を呈した、発見者がよりによってコーリャだったという偶然も、蓋然性が高まるはずだ。他の子供たちや父親がジューチカを探し始めたのはもっと後のことだからである。
(ただし、他の子供たちが探し始めたのがいつ頃からなのか確認できなかった。もしかしたら一ヶ月前だろうと二ヶ月前だろうと同じことなのかもしれない。)


いかにも無理筋と思われるだろうか。
確かに、『カラマーゾフの兄弟』が完結した小説なら、わざわざこんな裏設定を考えるのはどうかしているかもしれない。
しかし、十三年後のアリョーシャが主人公の続編が構想されていたことを思えば、ありえないとは言えないはずだ。

ドストエフスキーが推理小説的な手法を屡々用いたことは指摘するまでもない。
いかに鋭敏な読者であっても、ドミートリイが胸をたたく動作の意味を見破ることは出来なかったはずだ。いや、そこに謎が存在することにすら気づかなかったろう。
スメルジャコフの不可解な言葉、父の元に忍び込んだドミートリイの、直前で断ち切られた描写。
(今は思い出せないが他にもたくさんあったはずだ)
数々の謎とその解明によって、世界の意味を多層的に構築していく−−ドストエフスキーの得意とするところである。
アリョーシャと少年たちの一件が、続編のためのプロローグ的役割を持っていたとすれば、正編と続編にまたがって謎解きが行われたとしても不思議はないだろう。
コーリャ・クラソートキンの思想と性格を読み解く過程で、ジューチカとペレズヴォンの一件の真相が語られる予定だったのではないだろうか。

それにしてもコーリャはなぜ偽のジューチカを仕立て上げるようなまねをしたのか。私は彼の心理を説得的に描き出すことは出来ない。だがそれは私に想像力と筆力が欠けているからにすぎない。
ドストエフスキーならば出来るだろう。子供の残酷さと無邪気さを余すところなく描き出した作家である。
いや既に「思想」を持ち出したコーリャを子供の一人として扱うことはもうできぬのかも知れない。一人の人間の中で善と悪が、美と醜が激しくせめぎ合うさまを描き続けたドストエフスキーの筆は、容赦なくコーリャを腑分けすることであろう。
たとえばイエスによる死者の甦りと絡めて・・・などという妄想はここでは控えるが。コーリャの「思想」にも合わないだろうし。

ここまで書いた文を見直すと、ペレズヴォンは別の犬である、というのがわたしの主張のようだが、そういうわけではない。「どちらか分からない」というのが本音だ。
むしろ、完膚なきまでに「別の犬説」を論破してくれる人がいれば、その人に感謝することだろう。


他の人の意見は読まないようにしてこの記事を書いたのだが、検索すると次のようなものがあった。
清水正ブログ 意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載2)
121 - ドストエーフスキイ全作品を読む会

山城むつみ氏の『ドストエフスキー』は読んでおいた方がよさそうだな。



「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する 」(光文社新書) 亀山 郁夫 著
以前に書いた感想を再掲)
 果たしてアリョーシャ・カラマーゾフは皇帝暗殺犯となるのか。これまでの諸研究や証言をふまえて続編の内容を空想する。空想の元になる材料が少ないから、目から鱗が落ちるような解釈は無かったけれど、これまでの諸説をまとめてくれたりしてるのでありがたい。
 また、『カラマーゾフの兄弟』執筆とテロ事件との関係を時系列的にまとめたりもしている。

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2011年08月29日

『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ 著

『崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩』 (チヌア・アチェベの世界〈1〉)
チヌア・アチェベ 著
古川 博巳 訳
門土社 刊


ナイジェリアの作家チヌア・アチェベによる、アフリカ文学を代表する名作。
アチェベはアフリカ英語文学の父とも呼ばれ、国際ブッカー賞を受賞するなど国際的に評価されている作家。
『崩れゆく絆』は1958年の出版以来、世界各国に翻訳された古典。

〈内容〉
西暦19世紀後半。ナイジェリアのイボ人の村ウムオフィア。
村で有数の勇者、オコンクオの一家を中心に、村の生活が生き生きと描かれる。
だが、白人のキリスト教伝道者が村に現れ、共同体は大きく動揺する。


とても魅力的だ。
リアリズムの手法で淡々と描かれるのだけど、描かれる村の生活自体が精霊に満ちた魔術的なものなので、マジック・リアリズムのような感触も受ける。
農作業の方法、年中行事、数々のしきたり、ことわざ、民間伝承、信仰などが実に興味深い。

なかでもおもしろいのはやはり精霊信仰などのたぐい。
仮面の精霊がしばしば現われては村の生活に介入する(父祖の霊が仮面をつけた村人に憑依する、ということだと思う)。

また、オコンクオの娘の一人エジンマは邪霊の子(オバンジェ)と思われている。それは一種の取替え子で、何度も生まれ変わり死に変わり、母親の子宮に戻っては母を呪い苦しめる。呪術師がその子の秘密を暴くまでそれは続く。

双子が生まれると悪霊の森に捨てられたり、神のお告げによって少年が殺されたり、今の視点では野蛮といいたくなるような恐ろしい習慣等もあって、そのことがキリスト教の受容を促進した、ということも示唆される。


あと、イナゴの襲来は恐ろしいことだとばかり思っていたけど、みんな珍味の到来として喜ぶのが意外だった。襲来は収穫期の後だから、農作物を荒らされる心配はないらしい。


ナイジェリアの小説では他に『やし酒飲み』『ブッシュ・オブ・ゴースツ』のエイモス・チュツオーラを読んだことあるけど、これは「あちら側」の人というか、精霊の世界の住人によって書かれたような小説だった。
それに比べると、『崩れゆく絆』はずいぶん普通というか、小説らしい小説なので、とても読みやすい。内側と外側の両方の目をもって描かれているようだ。
その辺をアチェベ自身はこう言っている。
「テュテュオラの表現は〈自然の>ものであるが、じぶんのは<自然の>ものから<意識した>作家への領域を志向しているものである」訳者あとがきより
私にはアチェベのほうが面白かった。


チヌア・アチェベ自身は西洋的な教育を受けた人のようだ。祖父の時代にキリスト教を受容し、父親はキリスト教協会の責任者でミッションスクールの教師だった。アチェベもそのミッションスクールでまず勉強したそうだ。
それでも子供の頃は古い習慣や雰囲気は残っており、村の古老から古い話を聞くこともできたようだ。

私はこの本をビアフラ戦争を描いた小説だと思い込んでいて、戦争について予習してから読んだのだけど、そうではなかった。1958年の小説に約10年後のビアフラ内戦が描かれるわけはないのであった。
何の予備知識も必要ない。読み始めれば、たちまち引き込まれる。


何年か前のBBCのインタビュー番組を録画していたので先ほど見た。このインタビューの頃は、交通事故の治療のためアメリカに滞在し、大学で教えていた。今はどうしているのか知らない。PROFILE/:CHINUA ACHEBE THE POWER OF STORIESという番組。
http://www.bbc.co.uk/bbcfour/documentaries/profile/chinua-achebe.shtml
せっかくだから、この番組からチヌア・アチェベの発言をいくつか書き写しておこう。ちなみに聞き手は作家のキャリル・フィリップス(Caryl Phillips) (すばる誌 今月の人)

「ナイジェリアも、この植民地化によって人為的にできた国です。しかしナイジェリア人は植民地支配によってできたものではありません。われわれはイギリスの植民地支配が始まる前から存在していたのです」
「人々を支配するには、お前たちは本当はこうなんだ、という物語を押し付けるのが一番です。植民地支配もそれを目指してました。物語には力があります。世界中の人がこれを示してきたし、誰もが本能的に感じていることだと思います。誰かが自分の体験を話そうとしているときは、辛抱強く待つべきであって、こちらの言葉で補ってはいけません。与えられた言葉は受け入れないからです。その人は言葉を口にするまで続けるでしょう。」
「何が父らに先祖代々の信仰を棄てさせ、新参者の宗教(キリスト教)に改宗させたのでしょうか。父たちは、状況が良くないのは知っていましたが、何が悪いのかを指摘することはできなかったのです。だから、新しいものを受け入れようとしたのです。父は長男に、新しい言葉、つまり福音という意味のウクアという名前をつけました。当時は、新しい言葉に従うことが正しいことに思えたのでしょう。古い言葉がもはや信じられなかったからです」
「〈オーストラリアでの講演にて)これからもアフリカ・アフリカ人について書いていくつもりですか、それとも人間一般の状況について書いていくつもりですか、ときかれました。人間一般について書くことは決してないと答えました。それは私の選択です。質問者は、アフリカ人は人間一般ではないという考えなんです。人間一般とは、ヨーロッパ人、アメリカ人、オーストラリア人なんでしょう。考えさせられましたね」


『崩れゆく絆』は絶版らしい。もっと広く読まれていいすばらしい本だと思うので、ぜひ復刊を。
復刊ドットコム へ


『短篇コレクションI』 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集) 今、普通に入手できるチヌア・アチェベの作品はこれだけのようだ。短編「呪い卵」収録。


『半分のぼった黄色い太陽』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ (著)
 これは確実にビアフラ戦争を扱っている小説。昨年あたり評判になっていたので読もうと思ったのだけど、長幼の序を重んじて、まずはチヌア・アチェベを読むことにしたのだった。

 長幼の序でいえば、まずは訳者あとがきで「不滅の著作」と紹介されている18世紀の「エキアーノの旅行記」を読みたくなるところだけど、どうも邦訳はないようだ。ただ『奴隷制を生きた男たち』ジェームズ・ウォルヴィン (著) に、その生涯が描かれている。オラウダ・エクィアノと表記。イボ族出身で、奴隷から自由人となった人。


≪追記≫

光文社古典新訳文庫から新訳が出版されました!



崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)
チヌア アチェベ (著), 粟飯原 文子 (翻訳)
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2010年09月18日

『エロ事師たち』 野坂昭如 著




エロ事師たち (新潮文庫)
 野坂 昭如 (著)


野坂昭如の小説は、「火垂るの墓」しか読んだことなかった。
『エロ事師たち』は野坂氏の記念すべき処女作。今村昇平監督による映画版は以前に見ていて、大層おもしろかったのを憶えてる。
今回読んでみて、すばらしい傑作だと思った。

エロ稼業ならよろず取り扱っているスブやんなる男が主人公。春本、エロ写真、ブルーフィルムの撮影、処女屋、痴漢術指南など、男どものアワレな欲望に答えんとするヒューマニスト。
微に入り細をうがつ仕事の描写が実に面白い。多分取材に基づいて書いたんだろう。どこまでが実際でどこからが作者の想像なのか分からないが、日本戦後史の知らない一面を見るようで、勉強になる。
エロに地道を上げる男や女のおぞましくもあり、こっけい、あわれ、でもある。猥雑を極めた末にある光景はちょっと他の小説では見られない。

仲間のエロ事師たちも個性豊かだ。ブルーフィルム撮影にのめり込み芸術家たらんとする伴的、不感症だった亡き母への思慕からエロ本を書き続けるカキヤ、ゴキブリを愛でるゴキ、美男だが子供のころ継母に襲われて以来の女嫌いカポーなど。  
義理の娘・恵子との『ロリータ』っぽい関係もあってはらはらさせられる(もう高校生だけど)。

意外に色濃いのが死の影。
空襲による大量死はやはり野坂氏の原点なのだろう、戦後20年近く経っての話だが傷は深い。
主要人物も何人か死ぬが、葬式場面はいずれも名シーン。性と死が渾然一体となった(エロトスですか)、笑いと涙の世界(というと人情喜劇のようだが)。
これは空想の話だけど、マリリン・モンローのオナニー葬とか、底の抜けたばかばかしさ。

野坂氏独特の、関西弁のセリフが地の文と混じり合った文体も魅力。
変幻自在、融通無碍のこの文章だからこそ、人間の強烈な営みを丸ごととらえ得たんだろうと思う。巻末解説(澁澤龍彦氏)によると英訳版もあるそうだが、どう訳したんだろう。
「火垂るの墓」よりはちょっと簡潔かな。


映画版ではラストが違ってたような。クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』を想起させなくもないような奇想天外な落ちだったよう気がするんだが・・・。あれは映画オリジナルだったのかな。それとも単なる記憶違いか。かなり印象深い映画だったはずなのにほとんど憶えていないというなさけなさ(すごく面白かったのは確かですが)。

「エロ事師たち」より 人類学入門
監督: 今村昌平. 出演: 小沢昭一, 坂本スミ子, 近藤正臣

関西弁のうえ、隠語が多用されるので、なんのことか分からない言葉も多かった。カキヤが嘆くように世代の断絶は深い(私が堅物なせいかもしれんけど)。玉の門くらいなら何とか想像が付くが、「津液」「つび」「本手」とか初めて聞いた。
トルコはかろうじてわかったが、お座敷シロクロとか、あと色々あったが列挙して大丈夫かな、フィルタリングソフトに引っかかっちゃったりして。
エロ文化の継承ということについて考えさせられた。まあ現在のエロ文化についてもわたしはほとんど知らないのだが。

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2010年04月04日

『戦争と平和』トルストイ 著

 トルストイは、昔『アンナ・カレーニナ』を読んだのだけど、読んじゃ寝、読んじゃ寝して一ヶ月くらいかかってやっとのことで読み終わったのであった。最後まで何がいったい面白いのかよく分からないままだった。

 それ以来トルストイは敬遠してきたのだけど、死ぬまでに一度は読んでおきたい、と思って『戦争と平和』を読んでみた。とても面白かった。やはり名作は読んでおくものだ。例えばドストエフスキーのような、夢中でページを繰らされる強烈な牽引力は無いのだけれど、退屈なところはほとんどない。
 悠揚迫らぬ筆致で、ナポレオン戦争の時代のロシアを生きる人々が活写される。大河の流れに身を任せるような感じ、かな。実に大きな小説を読んだという感触を持った。分量的に長大なこともあるが。

 くどいほど繰り返されるトルストイの歴史観、戦争観も興味深い。
 トルストイいわく、ナポレオンやアレクサンドル一世のような、指導者個人の意志によって歴史が動くようなことはない。数多くの命令の多くは果たされない。たまたま時代の流れに一致した命令のみが果たされ、さも、その命令のために事件が起こったかのように見えるのに過ぎない。地位が高くなればなるほど取り得る選択肢は少なくなるのかもしれず、皇帝や王が歴史を動かしていると思うのは、羊の群れを見て先頭にいる羊が方向を決めていると思うようなものである。
歴史は、今の人間には理解できないとはいえ、ある法則によって動いているのである。
……というような説だったと思う。

 個々の戦闘についても同じである。いわゆる戦争の天才などというものは存在しない。一人の人間が戦場の無数の要素を把握できはしないのだ。司令官は、あたかも戦闘を指揮しているかのように見え、本人もそう信じているが、実はそう振る舞っているのに過ぎない。

 とても興味深く、また納得できる歴史観だ。NHKの歴史番組「名将の采配」に真っ向から対立する考えといえよう。とても楽しい番組ではあったが、実際の戦争があんな将棋のようなものであるはずはないのだ。アウステルリッツ戦のトルストイの迫真的描写と比べてみよう。


 岩波文庫の藤沼 貴 訳(amazonへ)は、文章が平易でとても読みやすいし、コラムや地図が随所に挿入されていて理解を助けてくれる。とは言え、読みやすいから良い、とは言えない。父称を省略したり、愛称を一つに統一したりというのはやりすぎだと思う。
 そこで、家では創元社版の米川 正夫 訳(誤植あり、挿絵付き)で、電車の中では岩波文庫の藤沼 貴 訳で読む、という変な読み方をした。
 日本語を読む魅力という点では、やはり米川訳がずっと上だと思う。読みやすさ重視の最近の傾向は残念に思う。もっとも『アンナ・カレーニナ』を読んだときにこれくらい読みやすい訳があれば重宝したかもしれないが。(米川訳も十分読みやすい、念のため)


 セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を以前にテレビで観た。長い長い映画で、宵の口に見始めて、見終わる頃には東の空が白々と明け初めていた。
戦争と平和 [DVD]
 かなり面白かったはずだが、内容はおぼろげにしか憶えてない。戦争場面が異常に大がかりで、空撮で戦場を映し出すのだが、どこまでいっても戦場が終わらない。映画用に本当に戦争を起こしたんじゃないかと思うほどだった。
 他に憶えているのは、少女時代のナターシャがとても愛らしかったこと。ハリウッド版のオードリーヘップバーンより魅力的だ(記憶では)。岩波文庫版の表紙は、親しみやすさを狙ったらしくこの映画のスチルが使われているのだが、なぜか少女時代のナターシャは使われていない。わけがわからない。
 原作のナターシャも魅力的に描かれているが、ちょっとむかつくところもある。小説中で一番魅力ある女性はマーリヤ・ドミートリエヴナかな。

 映画がらみでついでに付け加えると、黒澤明の『七人の侍』で、木村功が宮口精二に「あなたは素晴らしい人だ」と感動して言うシーンがあるけど、あれはペーチャとドーロホフのエピソードが元になっているのではあるまいか。と思った。


 本当は小説の中身に踏み込んだ感想を書きたいところなんだけど、わたしの手に余るので、こんなところでお茶を濁すことにする。


 これで、死ぬまでに一度は読んでおきたい大長編小説は下記のとおりとなった。正直が一番ではないだろうか。
ブッデンブローク家の人々
ヴィルヘルム・マイスターの修業時代
ドン・キホーテ
アレクサンドリア四重奏
失われた時を求めて
紅楼夢


なお、挫折済みの大長編には次のものがある。
レ・ミゼラブル
南総里見八犬伝
源氏物語

また、未読であり今後もおそらく読まずに終わるであろう大長編は
大菩薩峠
ジャン・クリストフ
特性のない男
チボー家の人々
風と共に去りぬ

などなどである。

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2009年05月06日

田村泰次郎 短編集




 私は、映画『肉体の門』や『春婦伝(暁の脱走)』の原作者として田村泰次郎の名前は知っていたけれども、昔の流行作家、として軽んずるような気分があった(なぜ昔の流行作家を軽んずるのかは自分でもわからないが)。「肉体文学の旗手」なる脂ぎったような呼称も近寄りがたさを増した。
 今回、いくつか短編を読んでみて、今の読者にも強い印象を与えるとても優れた作家だと思うようになった。

 特に、戦争について、イデオロギー的なご都合主義史観がまかり通る昨今(いや、昔からそうなのかな)、一兵士や慰安婦の肉体を通して戦争の実態を描く田村の戦争小説は、もっと広く読まれてほしいと思う。
 もちろん小説だから事実そのままではないにしろ、戦争体験者ならではの細部と迫力に満ちている。

 「私は肉体から出たものではない一切の思想を、一切の考え方を絶対に信じない」と田村氏は語っていたそうだが、過酷な戦場と価値観が崩壊した戦後を生きた作家の透徹したまなざしにとらえられた人間の赤裸々な姿は、今も生々しい迫真力をもって読者の心を打つ。

 なお、アマゾンへのリンクは最近刊行された講談社文芸文庫の作品集に貼ったけれども、実際に私が読んだのは集英社の日本文学全集67巻で、火野葦平との合集。

 収録作は下記のとおり。  

「肉体の悪魔」
 戦後第一作。大行山脈を侵攻する日本軍の兵士・佐田は、俘虜の娘、張沢民に心惹かれる。彼女は共産党員の愛国少女だった。敵対するもの同士の悲劇的な恋を描く。戦前から、李香蘭の大陸三部作など、日本男児と中国娘の恋は多く描かれたらしいけれど、この作品は、それらにありがちな自己陶酔的な日本中心主義を離れ、思想と本能、愛と肉欲の狭間に悩む男女の姿が良く描かれていると思う。

「肉体の門」
 鈴木清順監督の映画を割と最近観て感動したばかりなので、映画の印象がうすれてから読むことにして、今回は見送った。

「裸女のいる隊列」
 戦後十年をすぎたころ、戦争中に作られた記録映画を見る「私」は、華北を行軍した昔を懐かしむとともに、日本軍の恐ろしい残虐行為を思い出すのであった。

「蝗」
 原田軍曹ら3人の兵士は、戦死者を入れる白木の箱を河南の前線に輸送することになった。同時に5人の慰安婦(チョーセン・ピー)を、前線の兵士のために送り届ける任務をおっていた。明日の命も知れない男女の、燃えるような、しかし虚無的な生と性。

「女拓(抄)」
 女性遍歴を描いた自伝的小説。面白そうだけど、抄録なので今回は読まないことにした。

「失われた男」
 伊丹と太田は、中国の戦場で、「これが戦争なんだ」とばかりに強姦、殺人、放火など、共に悪行の限りを尽くす。日本に復員してからは、伊丹は戦場での悪行を隠して善人としてふるまい、経済的にのし上がる。一方の太田は、戦場の攻撃性をそのまま持ち帰り、故郷で鼻つまみ者になる。伊丹は、太田に引け目を感じつつ、彼を自分の恥部として忌む。
 戦場における残虐行為は、いかに迫真的に描かれていても、どこか異常な別世界の出来事のように感じられてしまうこともあるが、戦後をも戦場と地続きの場所として描かれることで、生々しさ、居心地の悪さを感じた。



 ちなみに、私が田村泰次郎に関心を持ったきっかけは李香蘭こと山口淑子の伝記(李香蘭 私の半生)を読んだことだ。戦前から二人は交流があり、「きれいな友情」で結ばれていたが、恋愛感情にまでは発展しなかったそうだ。戦時中も、河南地方をロケ中の李香蘭と偶然出会っていて、「鄭州の山の奥にもう三年も立てこもっていますよ。いやな戦争、いやな軍隊だ」と吐きだすように言ったとか。「蝗」の原田軍曹に重なって見える。ついでながら、「春婦伝」のヒロイン春美は李香蘭主演のイメージで描いたそうだ。

「春婦伝」の映画化。山口淑子が熱演。
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2008年07月06日

『私の男』 桜庭一樹 著



『私の男』 桜庭一樹 著 文芸春秋 刊 
 点数81点(100点が最高) 読んだ年齢:21歳以上

 父と娘の禁断の愛を描いた問題作。第138回直木賞受賞。
 地味なOL、腐野花は、幼い頃に震災で家族を失い、養父の淳悟に育てられた。二人の間には親子にあるまじき汚らわしい絆があった。

 構成が見事で、物語は現在から始まり、次第に過去にさかのぼっていくという「ペパーミント・キャンディー」形式(と私は名付けたが、ほかに適当な呼び名があるのだろうか)。いったい二人の過去になにがあったのか、二つの殺人はなぜ起きたか、「血の人形」とはなにか。

 欠点というべきか、文体に癖があって私は苦手だった。「海から、不吉な風が、吹いた。」とかいった感じで、いやこれほどはひどくないが、思わせぶりでことさら不吉さを強調しようとするところがあってちょっと鼻についた。鼻といえば、海の臭い、雨の臭い、男の臭いなど、嗅覚の描写が多くて、常に鼻づまりの私には今ひとつ実感しにくかった。
 だが好みの違いや嗅力の違いをこえて、全編から立ち上がる暗い情感は忘れがたいものだ。互いをただ一人の相手として激しく求めていく過程は説得力があって、タブーを暴き立てて喜んでいる多くの背徳モノの小説とは一線を画すると思う(他の背徳モノはそんなに読んでないが)。

 
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2008年05月10日

『知られざる傑作 他五篇』 バルザック作

『知られざる傑作 他五篇』(Amazon) バルザック作 水野 亮 訳 岩波文庫

点数80点(100点が満点) 読んだ年齢 21歳以上

 バルザックの小説を読んだのは初めてだ。いずれは読もうと思いつつ、背景説明がやたらと長くて退屈するという噂と聞いて敬遠していたのだ。映画版の『バルザックと中国の小さなお針子』をみておもしろかったので、読むなら今しかない! とついに決意した。本当は映画で重要な役割を果たす『ユルシュール・ミルエ』を読みたかったのだけど、あまり有名でないのにはそれなりの理由があるのかもしれないと思ってやめた。
 『知られざる傑作』は短編集。とてもおもしろい。ながながした描写はほとんどなく(「石榴屋敷」をのぞく)、きびきびした文体でおもしろいお話を語ってくれる。いくつかについて書くと、
「沙漠の情熱」 灼熱の砂漠での兵士と獣の愛。
「エル・ベルデゥゴ」 ナポレオン軍に侵略されたスペイン。苛烈な抵抗と残虐な処刑を描く。
「知られざる傑作」 画家が限りない情熱をもって何十年にわたり密かに描き続けられた女の肖像画。それがついに人目にさらされるとき、驚くべきことが明らかになる。芸術論としても秀逸で、印象派など後世の美術を先取りしている。
「恐怖時代の一挿話」 フランス革命期、恐怖政治から隠れて生活する聖職者のもとに、ある夜訪れた謎の男の正体とは。ルイ16世の処刑を巡る一挿話。

 バルザックの本領は長編にあるらしいけれど、まずは短編から入るのもいいんじゃないか。バルザック入門としてとてもいい本だと思う。少なくとも私は、長編に挑んでみようという気になった。


『バルザックを読む〈1〉対談篇 』 藤原書店
 この本は「バルザック「人間喜劇」セレクション」(藤原書店)の巻末対談をまとめたもの。編者の鹿島茂と山田登世子を相手に、中沢新一、山口昌男、松浦寿輝、町田康、池内紀らがバルザックの魅力を語る。ぱらぱらめくっただけだけど、バルザックを何から読もうか迷ってる人には格好の読書案内だ。読めば絶対おもしろい、と鹿島氏は力説する。
 やっぱり『ペール・ゴリオ』(ゴリオ爺さん)から読むかな。冒頭に長々と下宿の描写があるが、そこを乗り越えれば圧倒的におもしろい、そうだ。
 また『ラブイユーズ』は『従妹ベット』と双璧をなすスピード感ある小説で、読み始めるとやめられなくなるとか(町田康)
 『娼婦の栄光と悲惨』 松浦寿輝さんがいちばん好きだそうだ。女の錯乱と男の滑稽が描かれている。
 『十三人組物語』 秘密結社と聖杯伝説の視点で中沢新一氏が読み解いている。映画化された『ランジェ公爵夫人』を含む。なんか私好みかもしれない。

 こうして読みたい本ばかりがたまっていくなあ。
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2008年04月18日

『赤朽葉家の伝説』 桜庭 一樹 著


『赤朽葉家の伝説』 桜庭 一樹 著  東京創元社

点数:85点(100点が最高) 読んだ年齢:21歳以降


 話題の作家・桜庭一樹の小説を初めて読んだ。評判にたがわぬ傑作だった。
 鳥取で古くから製鉄業を営む旧家・赤朽葉家。戦中から現代まで、この家の女たちを三代にわたって描く。
 マジック・リアリズム風の手法で、ガルシア=マルケスを引き合いに出す人もいて、ええっ本当かよ、と思ってたけれど、確かに、千里眼、空飛ぶ男など、ガルシア=マルケスを思い起こさせるところがあった。世界文学のレベルで読めるかどうかはちょっと分からないけど、大変意欲的だし大きな小説だ。日本が舞台だけに、身近で心に訴える力もとても強かった。
 日本推理作家協会賞を受賞しているけど、推理小説というして読まないほうがいいと思った。とても多層的で一つのジャンルに収まらない。
 ライトノベル出身だからってこともないだろうけど、すごく読みやすく面白いのも私にはありがたかった。第一部はそうでもないけど、第二部から本領発揮という感じで、とても生き生きしている。奇矯な登場人物はマジック・リアリズムというよりライトノベルのにおいがする。

 戦後の日本の歩みが物語と重ねられるんだけど、時代背景の説明が紋切り型で、やっぱり若い作家じゃだめだなあ、と思いながら読んでいた。でも意図的なものだったのかもしれない。文字によって記録される日本の現代史と重ね合わせるように、文盲の万葉を中心とする幻想的なもう一つの歴史が描かれる。
 単に過去を伝説化するだけでなく、それを現代や未来にまでつなげていって日本の現実を豊かにしていこうっていう意欲的な試みなんだろうと思う。
 久しぶりに楽しみな作家だ。

 桜庭一樹はライトノベル時代から評判は聞いていたけど、ラノベ特有のあの表紙が苦手で読めずにいたのだ。旧作も新装版が出たりしてるので読んでみよう。少女を描くのがうまい人らしい。

桜庭一樹読書日記【Webミステリーズ!】


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2008年04月08日

『双生児』 クリストファー・プリースト著



クリストファー・プリースト著
古沢 嘉通訳 早川書房 プラチナ・ファンタジイ

点数:85点(100点が最高) 読んだ年齢:21歳以降

 歴史改変SFの傑作。英国SF協会賞/アーサー・C・クラーク賞受賞。「SFが読みたい! 2008年版」ベストSF2007年 海外編 第一位

 現代(1999年)の歴史作家が第二次世界大戦を振り返る、という形で物語は始まる。しかしその世界は我々の世界とは違った歴史を持っていることが冒頭に明らかになる。1940年代半ばに米中戦争が起こり、マダガスカル島にはマサダ共和国なるユダヤ人国家があり、第二次世界大戦では英独間の講和が1941年に成立している。
 どうやら、歴史の分化は1941年5月、ナチス副総統ルドルフ・ヘスによる英独講和が成功したことが発端となっているようだ。そして、そこにはJ・L・ソウヤーなる一卵性双生児が深く関わっているらしい。かつて1936年のベルリンオリンピックにボート選手として参加し、ヘスとも会見した彼らは、一人は空軍パイロット、一人は良心的徴兵拒否者という異なる立場から戦争に関わっていく……。

 歴史の分岐点をめぐる考察は大変読み応えがある。ヘスやチャーチルをはじめ実在の人物を各所に配し、失われた可能性を探っていく。本格的な歴史小説だ。

 巻末解説で大森望氏が、いろいろ種明かしというか、説明してくれているのはありがたい。この種の小説は、自分がどこまで読めているのか不安になることが多くて、さらに裏があるのに自分だけが気づいていないんじゃないかとか気になってしまう。私もかなり注意深く読んだので、だいたい大森氏が指摘していることは気づいていたけれど。前に同じプリーストの『魔法』の感想でも似たようなこと書いた。

 しかし解説者が言うほど一気に読めるような小説ではないと思うがな。腰をすえてじっくり読みたい。歴史好きなら絶対楽しめると思う。

 http://www.christopher-priest.co.uk/ プリーストのホームページ

 以下は、ネタばれと言うほどではないけれど、予断を与えてしまうかもしれない感想を書く。

 と、あえて断るのは、たまに「最後に大どんでん返しが待っている」とか書く人がいて、いやおうなしに心の準備ができてしまって驚けなくなるからだ。
 で、『双生児』について言えば、私が期待していたものとはやや異なる小説だった。もっと推理小説的というか、双子の取り違えなどをめぐってめくるめくような展開があるのかと思っていたら、肩透かしをくった感じだ。散りばめられた謎がそのままほったらかしにされているように思った。ジグソーパズルの一片がカチッと収まるような快感はない。
 ジャンル的な狭い読み方をしてしまった私が悪いんだろうか。でも作者もかなり思わせぶりで、ミステリ的手法で読者を引っ張っていると思うんだけど、だったらもうちょっと責任とってもらいたい。巻末解説で引き合いに出される奥泉光のミステリ的小説にもよく感じることだが。
 でもミステリ畑の人にもこれだけ好評ってことは、私の読み方が狭いのかな。あえてジャンルの約束事の裏をかいているのかもしれない。
 先入観を持たずに読みたいと思ってほとんど内容は知らずに読んだのだけど、ミステリのベストテン投票でも上位に入っていたりして、知らず知らずそういうものを期待してしまっていたようだ。ミステリ小説的な、すべての謎が収まるべきところに収まるようなものをプリーストが書くわけもないか。
 ジャンルは純文学に入れておこう。
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2008年03月30日

『ラスト、コーション 色・戒』 アイリーン・チャン著



 映画『ラスト、コーション』の原作を含んだ短編集。映画の印象が薄れてから読もうと思ってよけておいたのだが、我慢できずに読んでしまった。やっぱりちょっと早まったかな。拍子抜けするくらい短くて簡単な話だった。僕にとっての「色 戒」は、絡み合う肉体や、上海の街の映像と結びついてしまっているので、筋は映画とあまり変わらないのだけれど、どうもあらすじを読んでいるような印象を受けてしまった。映画と無関係に読めばまた違うのだろうけれど。
 映画化のおかげで読者数は多いと思うんだけど、これを読んで張迷(張愛玲の大ファン)がはたして増えるかどうか。やはり初期の代表作「金鎖記」や「傾城の恋」を読んだほうがよいと思う。他にも翻訳されているのに、Amazon.co.jpだと英語名のアイリーン・チャンで登録されているので他の作品にリンクしていないのが残念だ。張愛玲で検索してください。
浪漫都市物語 : 上海・香港'40S / 張愛玲, 楊絳著 JICC出版局, 1991. -- (発見と冒険の中国文学) / 藤井省三編集監修  短編集。「封鎖」「戦場の恋(傾城之恋)」「香港」「囁き」「やっぱり上海人」、他に楊絳の「ロマネスク」「叔母の思い出」
傾城の恋 / 張愛玲著 ; 池上貞子訳 平凡社 短編集。金鎖記 留情 傾城の恋。
 私が読んだのはこの二冊のみだが、長編の「半生縁―上海の恋」も人気だそうだ。

 他の収録作についても書こう。他には三つの短編が収められている。
「愛ゆえに(多少恨)」が、もっとも面白く、分量的にも読み応えがある。1947年に雑誌に掲載された(他の三作は1950年執筆)。
 妻子をもつ裕福な男性と、その家に家庭教師として入った若い女性との恋愛という、英国の小説にでもありそうな話。
 張愛玲自身が「いちばん通俗小説に近い」というだけあって、ヒロインに素直に感情移入し、ままならぬ恋の行方にはらはらしながら一気に読んだ。父親との確執も描かれていて、どうしても張愛玲自身を重ねてしまうが、実際がどうだったのかは知らない。
 親がきめた旧式結婚を脱して自由な恋愛をするというのは時代のテーマだったのかもしれない。ちょっと前だけど魯迅と許広平が有名だし。
 張愛玲が脚本を書いた映画『不了情』を自らノベライズしたものだそうだ。陳燕燕主演のその映画も見たくなった。
 張愛玲は映画の脚本も多く書いていて、以前に国際交流基金でも特集上映をしたことがあるみたいだ。またやってほしい。
http://www.jpf.go.jp/j/culture_j/topics/movie/hongkong1_b.html#2

「浮き草(浮花浪蕊)」 共産党が支配する上海から香港に逃れ、さらに日本にわたろうとする女性の、不安というか、宙ぶらりんのような感覚が描かれる。取り留めのない思い出話を聞いているような印象だが、私にはなじみのない時代なので、細部の時代背景がいろいろと面白かった。共産党支配が始まったころ?に痴漢やストーカーが流行した話とか、上海の外資系商社内の人間模様とか、東南アジア人は日本人と間違えられると怒るらしい、という話とか(東南アジア人と間違えられて怒る日本人は今でもいそうだが)……日本行きの船で知り合った日本婦人なども描かれていて、日本の読者には興味深い。小説的な掘り下げがあるわけではなく、実際に見かけた人をそのまま描いたような感じを受ける。
 ちょっと興味深いのは、南洋を行く船の上で、女主人公がしきりにサマセット・モームの世界を想起すること。モームが描く東南アジアを中国人女性が追体験するというのは、オリエンタリズムを研究する人にいい題材を提供しないだろうか。
 てっきり張愛玲自身の経験が元になっているのだろうと思いながら読んだのだが、訳者あとがきによれば1950年執筆だそうだ。張愛玲が香港へ脱出するのはもっと後の1952年。何でも作者と重ねてしまう癖は改めねばならん。
 本書は映画化に合わせて急いで訳さなければいけなかったそうで、特にこの作品は訳文が粗いような気がする。。今後手を入れていただきたい。

「お久しぶり(相見歡)」 これも1950年執筆。久しぶりに再開した二人の中年女性の交流。西洋の影響を受けながら旧時代の慣習にも縛られた世代だ。かつては同性愛に近い友情で結ばれていた二人だが、夫や姑との確執、気苦労の多い生活などで心をすり減らしている。索漠とした心のうちが描かれている。やっぱりストーカー体験も。

 結局、「色 戒」以外はかなり面白かった。
 なお、本書の題は「しき、かい」と読むのかと思っていたが、奥付をみると、いろ・いましめと訓じてあった。
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2008年03月22日

『人間の条件』 アンドレ・マルロー 著

『人間の条件』 アンドレ・マルロー 著 (1933年) 小松 清、新庄嘉章訳(Amazon)

 1927年の上海を舞台とした小説。蒋介石による共産党弾圧事件が物語の背景となっている。
 第一次国共合作のもと、上海を占領して実権を握った蒋介石は、列強の支持を受けて共産党弾圧に転じ、多数のコミュニストや蜂起労働者を逮捕・処刑した。
 この苛烈な状況でのコミュニストらの闘いが描かれる。
 ストーリーは劇的だし人物像は鮮烈だ。
 主要な何人かについて書くと、
 コンミュニストの清・ジゾールは、日本人とフランス人?の混血で、上海の蜂起を主導する。国民党に妥協的なコミンテルンに反発して武器の蜂起を拒否し、労働者の組織化を急ぐ。
 清の父ジゾールは、かつては北京大学教授として多くの革命闘志を育てたが、今は阿片に逃避し、社会との関わりを避けている。
 ジゾールのかつての教え子の中国人、陳は、死にとりつかれたテロリストとして蒋介石を暗殺せんとねらう。
 蒋介石側の秘密警察高官、ドイツ人ケーニヒは、かつてソ連の赤軍に拷問された経験から、コンミュニストを殺すときにしか人間らしい気持ちになれないとうそぶく。
 奇矯な世捨て人、クラピック。ドストエフスキー的な賭博者で、そのために重大な事態を招く。

 しばしば交わされる哲学的会話は私には難解で、意味がとりにくかった。翻訳のせいもあるような気がするが……。
 人間の条件という標題は、読む前は、人間として守るべき倫理のようなものをさすのかと思っていたが、そうではないようだ。むしろ人間を規定するもの、という感じか。清の思想によると、人間が利害を超越して命を投げ出そうとするあらゆる思想は、この条件の根底を人間の威厳の上におき、その正しさを証明することをめざしている。労働者にとってのコミュニズムもそうである。だが一方、人間の条件に耐えられない人々は、阿片、恋愛、殺人、革命、狂気沙汰の中に逃れようとする。

 私はこの反共クーデターについては年表程度の知識しかなかったので、大変興味深かった。どこまで事実に基づいているのかわからないが、マルローは自らもインドシナから帰仏の途中、中国によって、当事共産党と連携していた広東の国民党政権に協力したこともあるくらいの人で、かなりの知識を元に執筆したと思われる。
 実在の人物は登場していないようだ。蒋介石があの車に乗っている、とか、ボロディンが階上で執務している、とかいう程度。周恩来(上海で労働者の蜂起を組織した)や杜月笙(とげつしょう、秘密結社「青幇」の頭目で、労働者弾圧に暗躍した)とかの活動が反映されているかもしれないが。

 革命が成った現在の中国でも貧富の格差は相当ひどく、抑圧も強いようで、このままでは共産主義革命が起こるのではないか、という冗談もあるくらいだ。革命の理想は薄れたとはいえ、過酷な状況下での人間の尊厳を描く本書の意義は今も失われていない。

 荒川洋治さんのラジオ(2月19日)で聞いたのだが、フランスのル・モンド紙が実施した、世界の偉大な文学を選ぶ投票で、『人間の条件』は5位にランクしているそうだ。ひょっとしてこれのことかな

 マルローは日本との関わりも深く、『人間の条件』でも、清の死生観などに日本の文化が反映されている。松岡清剛の千夜千冊で、マルローと日本についての関わりを紹介している。
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2008年02月09日

『細雪』 谷崎潤一郎



『細雪』 谷崎潤一郎

点数 97点

 読書好きを自称しながら、この名作を今まで読んでなかったとはけしからん。大長編なので敬遠してたのだ。
 読んでみると、全く長さを感じさせない面白さだった。むしろいつまでも読み続けていたいほど。一番好きな日本文学の一つになった。
 戦前戦中、関西の商家の四姉妹(主に描かれるのは三人)が主役。奥さんの松子さんたち姉妹がモデルだそうで、そのせいかどうか、心の内や生活が実にきめ細やかに描かれる。
 お見合いが成功するかどうかというつまらなそうな題材がメインで、家庭生活がゆったりと描かれるだけなのに、退屈するところがまったくなかった。関西の優雅な世界にすっかり魅了されてしまった。さすが大谷崎。無論それだけじゃなくて洪水やら病気やら道ならぬ恋やら、はらはらさせられるエピソードもたくさんある。
 ぼくが苦手なエロティシズムがほとんど前面に出てこないのも良かった。これは戦争という時局が影響してたらしいのだけど。

 せっかくだから旧字旧かなで読みたいと思い、古本屋で買った筑摩書房の「現代文学大系」版で読んだ。昭和41年刊。でも注がついてないので、新潮文庫版を併読した。註がなくてもすらすら読めるけど、やっぱり当時のことでわからない部分も多いので参考になる。余談だが「現代文学大系」に挟みこまれてた月報には、『細雪』映画化で妙子を演じた高峰秀子のエッセイ(谷崎家との交流記)が載っていたのがうれしかった。ファンなのだ。

 ついでに谷崎潤一郎の他の小説についても書こう。
 谷崎文学は、高校生の頃、『痴人の愛』を読んで、こんな情けない話が日本文学の名作か、とがっかりしたのが最初の出会いだ。なにせドストエフスキーなど人類の大テーマにいどむ文学こそ名作だと思ってたから、女とセックスできず「今日もだめだったか!」と叫んでるような男の話はあまり好きになれなかった。
 でも初期の悪魔主義といわれる時代の短編はすごく好きで、特に「少年」とか面白かったな。「異端者の悲しみ」は、谷崎版の、ドストエフスキーの『地下室の手記』かな、と思った。多くは『刺青・秘密』に収録されている。
 いわゆる日本回帰をしてからのはあまり読んでないけど、「春琴抄」はすごかった。川端康成は「ただ嘆息するばかりの名作で言葉がない」と絶賛した(と今日の日経の夕刊に出てた)が、私も川端氏に同感だ。河野多恵子氏も『小説の秘密をめぐる十二章』で「言葉もないほど見事な出来栄えに達している」書いてる。やっぱり言葉なくすよなあ。でもこれが読みにくい。句読点もなしで延々文章がつづくのだ。これのせいもあってちょっと谷崎を敬遠するようになったんだ。大長編をこの調子でやられたらとても読めない。こんな特異な文体を選んだ理由について、『文章読本』にかかれていたような気がするけど、憶えてない。

倚松庵 『細雪』の舞台となった谷崎の旧居が公開されている。 
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2006年10月14日

ガルシア=マルケスによる「ノーベル文学賞メッタ斬り」

 現役のノーベル文学賞受賞者でもっとも高名なのはガルシア=マルケスではないかと思うけど、彼はジャーナリスト時代、ノーベル文学賞をくさしたようなコラムを新聞に書いている。
ユリイカ誌1988年8月号のマルケス特集号に載ってたのでちょっと抜き書き要約してみる。
「ふたたびノーベル賞について」1950年4月『エル・エラルド』紙(コロンビア)のコラムから

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 ジッドやオルダス・ハックスリーよりも先にヘルマン・ヘッセがノーベル賞に輝いているのだが、ヘッセはノーベル賞を与えられるほどの作家ではない。『内面への道』に収録されている諸短編と同様に、『デミアン』と『荒野の狼』は確かにすぐれた作品である。けれども、その評価はあくまで相対的なものにすぎない。請け合ってもいいが、スウェーデン・アカデミーの委員諸氏は、ハックスリーの『恋愛対位法』や『奴隷とともに観覧車に乗って(訳注によれば『すばらしい新世界』のことらしい)』をひもとけば、この上なく楽しいひとときをすごせるに違いない。その点、ヘッセの書いた作品は比較にならない。
 チリのガブリエラ・ミストラルは、この賞を受けた。真にノーベル賞を受けるに値する南アメリカの詩人は誰かということになれば、ミストラルがそうであるとは言い切れないだろう。そうなると、彼女と同じチリ生まれの偉大な詩人パブロ・ネルーダの存在を無視することになるからだ。
 また『大地』のパール・バックが受賞したとき、あの非凡で驚くべき作品を書いたジェイムズ・ジョイスが生きていたはずである。ジョイスがノーベル賞を取れなかったのは、作品が欠点を備えていたからでなく、比肩すべきものがないほどずば抜けていたからである。
 こうした先人たちの事例から一種の受賞者基準表のようなものを作り出すことができる。その基準表に照らせば、わが国(コロンビア)のヘルマン・アルシニエガスやペルーのルイス・アルベルト・サンチェス、あるいは林語堂と並んで、ロムーロ・ガリューゴスに最高の評価をつけることができるだろう。もっともまだ、オルダス・ハックスリーやアルフォンソ・レイエスも存命中だし、とりわけアメリカには、ウィリアム・フォークナーという現代小説の世界でもっとも非凡な才能を備えた作家も控えているけれど。
 そういえば、ジョイスも受賞しなかったし、ヴァージニア・ウルフという天才作家もそうだった。そしてプルーストもたぶんその例にもれなかったと思うが、彼らと同じ理由でフォークナーが受賞することはまずないだろう。もしノーベル賞がずっと昔に制定されていたとすれば、セルバンテスやラブレー、あるいはラシーヌに与えられなかったことに、現代のわれわれはびっくりするにちがいない。 
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 だいたいこんな感じで、かならずしもすぐれた作家が受賞していないことを批判している。じぶんが30年後に受賞するとも知らずに。ネルーダやフォークナーも後で受賞した。
 パール・バックの受賞については、ノーベル委員会のペール・ベストベリィ委員長も「恐ろしい例」として反省している。朝日新聞のインタビューより。文学性も吟味されないまま決まってしまったそうだ。30年前からは最終候補に初めてあがった年には受賞とせず、じっくりと文学性を審査するようになったとか。
 パブロ・ネルーダの作品は私は読んだことないけど、映画『イル・ポスティーノ』は、イタリアのいなかに亡命中のネルーダと土地の青年との友情を描いた感動作だった。(パブロ・ネルーダでAmazon検索
 フォークナーについては苦い思い出がある。『サンクチュアリ』を読んだ際、玉蜀黍(とうもろこし)という漢字を私はずっと「たまねぎ」と読み間違えていて、一体たまねぎの芯が何で重要なんだ? 剥いても剥いても中があるという神の暗喩なのか? 難解な小説だ、などと悩みながらついに最後まで読み終えたのである(しかし肝心な所を誤解したまま読みきった私の読書力もたいしたものだ。『ユリシーズ』だって読めるかもな)。めげずに次に読んだ『八月の光』は比較的読みやすく面白かった。

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 今年2006年のノーベル文学賞はトルコのオルハン・パムク氏に決まった。ほぼ予想されてたとおりだったようだ。詩人や戯曲家だと、受賞してもちょっと読んでみようって気にならないんだけど、オルハン・パムク氏の小説はかなり物語性の豊かな面白いもののようだ。ぜひ読んでみたい。でも受賞してすぐに読むのは恥ずかしい気もするので、ちょっと待ってから読んでみたい。
 アルメニア人虐殺問題と絡んで政治的思惑があるのかどうかは知らないけれど、ノーベル文学賞も、平和賞ほど出ないにしてもいろいろ物議をかもすこともあるようだ。
 なおアルメニア人虐殺について私はほとんど知らないけれど、アトム・エゴヤン監督の『アララトの聖母』はみた。エゴヤン監督がアルメニア人の立場から事件を描いたもの。



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2005年10月25日

『罪と罰』 ドストエフスキー著


感銘点:100点(100点が最高) 読んだ年齢:10代前半

 世の中におもしろい本は多いけれど、今までの人生で1番おもしろかった本を選ぶなら、私はこの『罪と罰』をあげる。これほど夢中で本を読んだことは後にも先にもない。文字通り寝食を忘れて没頭した。
 異常なほどの高揚感を味わい、読み終わってからも熱に浮かされたように心は地獄のようなペテルブルグを彷徨い続けた。
 高度に哲学的な主題がこれほどサスペンスフルで心揺さぶる物語として表現されうるってのは驚くべきことだ。近代小説の極北。まあ哲学的な部分をどれほど理解できてたのかは怪しいけれど。

 なお、今出てるものはどうか知らないけど、私が読んだ新潮文庫版には、表4にあらすじが最後の方まで書かれていた。これから読む人はお気をつけになって。
 ドストエフスキーの別の長編を古本屋で買った昔の文学全集で読んだところ、中に挟まれていた登場人物表に、「実はこいつが真犯人」といったことがかかれていて愕然としたこともある。昔のことを批判しても仕方ないが、配慮が足りなさすぎる。
 ドストエフスキーの魅力の一つには謎に満ちたストーリー展開がある。犯罪や陰謀の真相が暴かれていくのに従って人間の闇が徐々に姿を現してくる恐ろしさ。最初から謎をあかしてどうするんだ。高尚な文学には推理小説的な興味など無用と考えたのだろうか。もちろん、それしきのことでこれらの巨大な作品群が台無しになるなんてことはないが、楽しみの何割かが失われたように思う。


謎とき『罪と罰』 江川 卓著
 ドストエフスキーの解説本もいくつか読んだけど、面白さではこれが一番だった。一見悪文に見えるドストエフスキーの小説は、実は精巧なからくりが仕掛けられており、人名などにも一つ一つ深い意味がこめられてるのだそうだ。アンチ・キリスト、ロシア正教会からの分離派運動などが象徴的に組み込まれているのだという。
 面白すぎて本当なんだろうかって気もする。外国人が日本の文化について語るとき、なんにでも禅精神を見出したりして違和感を覚えることがあるけど、その類ってことは無いかな。いずれにしても当時の宗教的背景がわかって読む価値あり。
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2005年06月03日

「私の遍歴時代」三島由紀夫著



感銘点:80点(100点が最高) 読んだ年齢:21歳以降

 県立神奈川近代文学館で「三島由紀夫 ドラマティックヒストリー」展を見てきた。
 僕は三島由紀夫の小説では、特に若いころの、きらびやかな文体で綴られた浪漫主義的な短編が好きで、この展覧会でも少年期から青年期の展示が特に面白かった。原稿や日記、学校の成績表まで展示されていて、「詩を書く少年」の才気が垣間見られる。

 で、三島の若い時期を綴った文学的自叙伝がこの「私の遍歴時代」だ。三島のエッセイには観念的で難解なものも多いけれど、これは若き日の具体的な出来事が描かれていて、読み物としてとても面白い。展覧会のキャプションにも多く引用されていたようだ。

 本書によれば、戦時中はむしろ幸福で、自分ひとりの文学的快楽に浸っていたという。遠い大都市の空襲を、「ぜいたくな死と破滅の大宴会」として望みつつ、イェーツの戯曲を謡曲の候文で訳していた(もっとも記憶にはないそうだが)。
 世界の滅亡をも自分のナルシシズムの鏡として利用し、終末的な美学を「中世」などに作品化していく。

 戦後の川端康成との交流、戦後派とのかかわり、初めての世界旅行などの話も興味深い。
 やはり最も面白いのは太宰治とのエピソードだろう。太宰に面と向かって「僕はあなたの文学はきらいです」と言い放った話が書かれている。太宰は「そんなこといったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな、なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたそうだ。その答えから、自分と太宰の文学の違いを語る。



 自伝的な「詩を書く少年」を収録。華麗な比喩を駆使して詩を書く少年は、言葉の地獄を発見し、自分が詩人ではないことを発見し、小説という「二度と幸福の訪れない領域」に突き出される。三島の文学的出発点を描いた名作。



 童話的で美しい短編「サーカス」などを収録
posted by 読書家 at 23:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 純文学など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月26日

『魔術師』

ジョン・ファウルズ著 小笠原豊樹訳 河出書房新社

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感銘点:99点(100点が最高) 読んだ年齢:21歳以降

 現代イギリス文学を代表する作家の一人、ジョン・ファウルズによる傑作長編小説。
 エーゲ海に浮かぶギリシアの島を主な舞台に謎に満ちた物語が繰り広げられる。
 とにかく面白くて、中盤以降は文字通り寝食を忘れて没頭した。サスペンス小説としてこれを上回るものは読んだことがないかもしれない。もちろん面白いだけではなくて、男女の愛、自由意志、戦争など幅広いテーマについての卓抜な知見が披瀝される。謎めいたコンヒス老人が語る独特の哲学にはずいぶん刺激された。オカルティックなところもあり、幻想について描いた小説という意味では幻想文学の傑作といってもいいかもしれない。あまりに不可解なところが多くて頭を悩ませられたが、いつまでも悩ませられていたいと思うほど魅惑的な物語だ。

 ファウルズは本書のあいまいな部分を書き直した改訂版を出しているそうだ。この訳書は、出版時期から考えると改訂前のものらしい。完全版も訳して欲しいところだが、本書も品切れというような状況では無理だろうか。
 ファウルズは日本ではどうも不遇なようだ。本書のほか『コレクター』『フランス軍中尉の女』が映画化されてるし知名度はあると思うけど、サンリオから出版されていたものが多いので今やほとんど絶版状態。河出書房はモダン・クラシックスのシリーズで名作をどんどん復刊してくれているありがたい出版社だけど、ファウルズについても是非お願いしたい。(ついでにお願いすると『魔術師』を再刊する際は表紙を変えて欲しい。あまりにイメージが違う。)

 ヒロインのリリーはボッティチェリ風だということなので、画像をはっておこう。「ビーナスの誕生」と「ユーディット」。下は『フランス軍中尉の女』の関係。ロセッティがエリザベス・シダルをモデルに描いたベアータ・ベアトリクス
ボッチチェリVenus ボッチチェリJudith
ベアータ・ベアトリクス


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posted by 読書家 at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 純文学など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月18日

『ジェーン・エア』シャーロット・ブロンテ著

『ジェーン・エア』大久保康雄訳 新潮文庫(Amazonへ)

感銘点:88点(100点が最高) 読んだ年齢:10代後半

 ブロンテ三姉妹の長姉、シャーロットによる名作。妹エミリ・ブロンテの『嵐が丘』があまりにおもしろかったので、続けてこれを読んだ時はどうしても比べてしまい、今ひとつかな、と思っていたのだが、やはりこちらも傑作に間違いない。『嵐が丘』と比べると独創性や激しさでは劣るようだし、興奮状態で読み終わるようなこともなかったが、天涯孤独なジェーンの境遇に一喜一憂しながら実におもしろく読むことができた。基本的には恋愛小説なんだろうけど、それにとどまらない多彩な内容だ。
 特に子供時代のエピソードが好きだ。養い親に虐待されて苦しむジェーンには激しく感情移入せずにはいられない。またローウッド寄宿学校に移され、初めてできた友達ヘレンは、病魔に苦しみ教師からひどい扱いを受けながらも、神への信仰を胸に崇高な心を保ち続ける。ジェーンとの短く哀しい友情には胸を打たれる。ヘレンのモデルは幼くして死んだ姉マリアだそうだ。
 フェミニズム小説の嚆矢とする見方もあるほどだから、大人になってからのジェーンは独立心に富んだ魅力的な女性として描かれる。ロチェスター氏やセント・ジョン氏といった男たちも非常にあくが強く、ジェーンとの会話の応酬は単なる恋のさや当てというより自分の個性と独立性を賭けた戦いのようで、スリリングですらある。
 夜な夜な館に響く不気味な声、西インド諸島からの謎めいた客といったゴシック・ロマン的な興趣にもあふれており、とにかく面白い小説として物語の魅力を堪能できる。
 それにしても、小説好きとしてはブロンテ姉妹のことを思うだけで何か厳粛な気持ちになる。荒涼たるムーアに建つ牧師館で半ば孤立した生活を送りつつ、ひたすら物語の世界に耽溺して奇跡のような名作を送り出した。彼らの不幸な生涯自体に心を動かされる(特にエミリだが)。

 なお、この小説は西欧と植民地主義といった問題もはらんでいる。読んだ時「屋根裏の狂女」の扱いにひっかかるものを感じたのだが、ドミニカの作家ジーン・リースが、この狂女を主人公にした『サルガッソーの広い海』(または『広い藻の海』)という小説を書いていて、これも歴史的な傑作。ポストコロニアル、クレオール文学のさきがけとなったもので、白人中心主義への批判になっている。だからといって今の我々がジェーン・エアを否定する必要はまったくないけれど。

ブロンテ姉妹
弟パトリックが描いた三姉妹。左からアン、エミリ、シャーロット。このパトリックがまた不幸なんだ……。


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2004年12月01日

『蠅の王』 ウィリアム・ゴールディング著

 平井正穂訳 新潮文庫

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 感銘点:88点(100点が最高) 読んだ年齢:20歳以上

 ノーベル文学賞を受賞したゴールディングの衝撃作。暗黒版『二年間の休暇』とでもいうべき少年漂流小説。
 孤島に取り残された少年たちは、閉ざされた環境の中で次第に残虐性を目覚めさせていく。
 蠅の王とはベルゼバブのことらしい。悪魔的な心に支配された少年たちの争いは息苦しくなるほどの緊迫感に満ちている。どんなホラーより恐ろしい。
posted by 読書家 at 22:58| Comment(2) | TrackBack(1) | 純文学など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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