2012年07月27日

『メリダとおそろしの森』 監督 マーク・アンドリュース 、 ブレンダ・チャップマン


残念ながら、ピクサー映画にしてはあまりおもしろくなかった。
中世スコットランド風の世界を舞台にした魔法物語。
この手のお話は子供の頃から大好きで、ピクサーがついに進出してくれたか、と喜んでたのに。

王女メリダは、運動バカというのか、馬で森を疾駆しつつ矢を射る姿はとても凛々しくかっこいいのだけど、その実、わがままで考えなしの女の子。どうも感情移入できない。
母親にあんな物を食べさせたらだめでしょう。子供だからってこれは度を超してないかな。魔女に悪気は無くて、全部メリダのせいだよね。教訓物語のパターン化された主人公なら納得できるかもしれないけど。
きっとこれから成長するに違いない、と自分に言い聞かせながら見なければならなかった。
実際成長するのでまあいいか。

おとぎ話のお姫様といえば王子様を待つばかりだったのに、求婚を拒否するなんて現代的、と最初思ったのだけど、考えてみれば、求婚を拒否するお姫様っておとぎ話にも出てくるよな。求婚者に難題を出したり自ら闘ったり。最終的には結ばれるかもしれないけど。
親が決めた政略結婚にメリダが反発するのはいいとして、反発のしかたが何か現代っ娘みたいに見えた。「こんなの絶対おかしい!」って、この時代ではメリダの方がおかしいんじゃないのかなあ。展開を納得できるようにするにはもう一手間必要ではなかったか。世界に人物が溶けこんでない感じがした。
もっとも当時のスコットランド女性を私は知らないので、固定観念を押し付けようとしているだけなのかもしれない。

このことに限らず、ちぐはぐな印象をうける部分が多かった気がする。まじめなのかふざけてるのか分からなかったり。魔法の使い方がご都合主義だったり。
監督が途中で替わったことと関係あるのかどうか。

まあそれでも、スコットランドの森の描き方とかすごく良かったし、最後はそれなりに盛り上がったし、良いところもたくさんあった。ピクサーへの過剰な期待をおさえて気軽に見ればもっと楽しめたと思う。しかしピクサーにさえ期待できないようになっては困るのだが・・・。

苦労したという巻き毛の表現も良かった。髪なんかどうでもいい、と思っていたけど、見てみると確かに印象的。


『メリダとおそろしの森』という日本題名は良いですね。
でも誤解を招くタイトルかもしれない。森の力を描く神話的ファンタジーを期待すると拍子抜けする。
基本的には母子関係を描いたちまちましたお話。

原題はBrave。ブレイブ・ハートと関係あるのかな。スコットランド魂を一言であらわす言葉なのかもしれない。勝手な想像だが。


おまけの短編が二編。トイ・ストーリーの番外編と、月をめぐるメルヘン「月と少年」(イタロ・カルヴィーノ の『レ・コスミコミケ』にこんな話なかったっけ)。
どちらもイマイチかなあ・・・。

ピクサーの今後のラインナップはこちら
http://eiga.com/news/20120427/5/

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2012年07月16日

『カラマーゾフの妹』が発売される



第58回江戸川乱歩賞受賞作、高野史緒さんの『カラマーゾフの妹』は8月に発売予定だそうだ。
Takano's diary(高野さんのブログ)
(受賞時のタイトル『カラマーゾフの兄妹』から改題。妹萌え小説ではないことを願う)

『カラマーゾフの兄弟』の書かれざる第二部を引き継ぐ形で、父殺しの真相を描くのだという。

うーむ、どうなんだろう。
興味がないといえば嘘になるが、読みたいと言えばそれも嘘になる。
読めば怒りのあまり本を床に叩きつけることにならないとも限らない。

高野さんの小説は『ムジカ・マキーナ』と、SFマガジンでピラミッドを題材にした短編を読んだだけだが、相当な教養の持ち主だと思う。
ロシアにも詳しいようだし、きっときちんとした小説にしてくれているだろうとは思うのだが。
(個人的には、先日検証記事を書いたジューチカとペレズヴォン問題があつかわれるのかどうかも気になるところ)

たとえどんなことになっても、焚書を叫ぶことは避けなければ。
『華氏451』の感動を思い出そう。

「読みたい本」のカテゴリに入れたが、本当なら「読みたいような読みたくないような本」という新たなカテゴリが必要なところだ。


選考委員の東野圭吾さんによると「他の候補より頭一つ二つ抜けていた」とのことだ。
乱歩賞の水準から推し量るに、他の候補作は140センチメートル程度だろうか。
「頭一つ二つ」をいい方にとって頭二つ分とすれば、約48センチ。
すなわち『カラマーゾフの妹』は約188センチメートルという計算になる。
日本人としてはかなりの大柄だが、ドストエフスキーに挑むのであれば2メートルはほしいと思うのだが・・・。

MSN産経ニュース(高野さんのインタヴューあり)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120528/art12052808220002-n1.htm
参考:身長別−男女の頭の大きさ(顔の大きさ)の平均http://homepage3.nifty.com/orangejuice/head1.html

※本記事後段の記述に、身長差別の意図はありません。「頭一つ抜ける」という日本語の慣用句をあえて文字通り受け取った冗談にすぎません。不快に思われた方がいればお詫びします。


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2012年07月13日

ジューチカとペレズヴォン 『カラマーゾフの兄弟』より


『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー 著 米川 正夫 訳 岩波文庫 


十代の後半に『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んで以来、ジューチカとペレズヴォンは同じ犬なのか、それともよく似た別の犬なのか、という問題は、私にとって大きな謎となっている。

最近、下記の二つのブログ記事でこの問題を検証しているのを見つけ、ついに長年の疑問が解き明かされるのか、と期待して読んだ。

横板に雨垂れ 朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」 補足1 − ジューチカとペレズヴォン
連絡船 (一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ね

どちらの記事も「同じ犬」説を強く主張しているのだが、残念ながら、そこでは実証的とは言い難い主観的な文章が並ぶのみで、とても納得はできなかった。
両記事から判断するに、お二人は亀山郁夫氏の解釈を読むまでは、ジューチカとペレズヴォンが違う犬だという可能性をまったく考えていなかったようだ。だとすれば『カラマーゾフの兄弟』の中でもとくに美しいこのシーンを読んだときの感動はいかばかりだったか、想像に難くない。その感動を亀山氏に汚された、という怒りが、お二人の文章を過剰に攻撃的なものにしているのだろうと推測する。
(ただしブログの他の記事は読んでいないので、亀山郁夫氏への彼らの怒りが正当なものかどうか、私には分からない)

お二人の意見は、わたし流に平たくまとめれば「コーリャ・クロソートキンがそんなひどいことするはずがない!」「それじゃイリューシャがかわいそすぎる!」と言うことだと思う。
その気持ちは分かるし、同じ犬だとそこまで強く確信できるなら、それはむしろうらやましいことである。
私にしても、同じ犬であってほしい、とどれだけ強く願ったかしれない。確証を求めてすがるように小説を読んだことを思い出す(ちなみに、私が読んだのは米川正夫訳による河出書房版世界文学全集11)。
しかし疑いは晴れず、「少年の群」の、ひいては『カラマーゾフの兄弟』の印象に、あいまいで不穏な影が差すことになってしまった。

私はあえてひねくれた読み方をしたつもりは全くない。ドストエフスキーを読んでいるときの私以上に真摯な私が他にいるなら教えていただきたいくらいである。
亀山氏や私に限らず、ごく「普通」に読んで、同じ疑念にとらわれた読者は多いと思う。
どちらの読み方がより「普通」であるかを争うつもりはないが、別の犬だという可能性を思いつくだけでも愚劣である、と決めつけられるのは業腹だ。

亀山郁夫氏にしても、解釈の可能性を示しただけであり、別の犬だとはっきり主張しているわけではない(上記ブログの引用文から判断する限り)。それすら許されないというのであれば、研究者に研究するなと言うようなものだろう。
私は亀山氏の翻訳は好きではないし、氏の読みに納得できないこともあるが、少なくともジューチカ=ペレズヴォン問題について言えば、亀山氏への非難は私への非難でもある。

よって、私なりに思うところを書いてみたい。
自分に何かを証明できるとは思っていないが、考えを整理してみるのも悪くなかろう。

なお、この記事を書くために『カラマーゾフの兄弟』全編をきちんと読み返したわけではないので、あるいは見当違いの意見もあるかもしれない。



イリューシャの病床におけるジューチカとの再会は、確かにとても美しい場面であるが、その美しさは偶然によって支えられていることに注意すべきであろう。
つまり、
1.ジューチカは死なずに生きていた。
2.生きていたジューチカを発見したのはコーリャだった。
この二つの条件がそろわなければこの場面は成立しないのだ。
針を含んだパンを食べたジューチカが、死ぬか、回復不能な怪我を負う可能性はかなり高かったはずだ。
ジューチカが生き残ったのは幸運にすぎない。
また、それを発見したのがコーリャである必然性はない。他の子供や父親に比べてコーリャの行動力、判断力が卓越しているだろうことを思えば確率的には高くなろうが、やはり偶然である。

偶然に由来する美しい場面。これはメロドラマというべきではないか。
むろん、ドストエフスキーはメロドラマ的な手法をしばしば使う作家ではある。
しかし、物語の一つの極みともいえる重要な場面に、幸運がなければ成り立たないような美しい状況をもってくるだろうか。ジューチカの生死が決定的に重要となっている所へ、"たまたま”生き残っていたジューチカが突然現れる−−。
ドストエフスキーはそんなに甘い作家だったろうか。
疑問の余地はあると思う。
(もっともドストエフスキーのことだから、獣医に聞くなり実験するなりして、犬が生き残る可能性を把握した上でこの事件を描いたのかもしれない。また、他の子供たちがジューチカを探し始める前にコーリャが発見していたのだとすれば、それを偶然の所為というわけにはいかないか)

地の文でこの犬の名をジューチカと記した部分が一つもない(たぶん)ことにも注意したい。イリューシャにとってはこの犬はジューチカなのだから、イリューシャに抱かれているときくらいは「ジューチカ」と記してもよさそうに思えるが、ドストエフスキーは注意深く(?)それを避けている。地の文では常に「ペレズヴォン」または「犬」である。

イリューシャが別の犬をジューチカと思い込むはずがない、と言う人もいるかもしれない。
しかし、ジューチカはイリューシャの飼い犬でも何でもなかったことをお忘れではないだろうか。イリューシャが可愛いがっていたという記述すら無いはずだ。
ピン入りのパンを食べさせたという事件によって初めて、ジューチカはイリューシャと結びつき、特別な犬になったと考えていいだろう。
よって、特徴が一致する犬をジューチカと誤認したからといって、イリューシャの不注意を責めることは出来ないのである。


ブログ「連絡船」の記事で唯一客観的論拠が示されていたのは下記のくだりである。別の犬をジューチカの替え玉に仕立てるには、ひと月では短すぎることを指摘されている。

−以下引用−
仮にジューチカがペレズヴォンでなかった場合、ジューチカの「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのをですよ、現実的にこのひと月の間にどうやってべつの犬に再現できるというんですか? 実際に誰かが ── いったい何だって亀山郁夫はそれを誰といわないんですかね。こういうものいいが亀山郁夫の文章の特徴で、彼の小ささ・せこさ・薄っぺらさをよく示しています。翻訳者、専門家、研究者が一般読者(の啓蒙)に向けてこんな思わせぶりなものいいをしてはいけません ── 「ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶした」としたって、それはまだ生傷ですよ。そんなことは見ればすぐにわかります。で、ジューチカの同じ特徴がまだ新しかったのかどうか、そんなことは書かれていません。そもそも、「片目がつぶれてて、左耳が裂けてる」というのは、実際にはどういうふうだったんでしょう? どんなものであれ、それをそのままべつの犬に再現することなど誰にも不可能ですよ。しかも、どこからか連れてきたその犬に傷の再現もし、さらになつかせるわけでしょう、ひと月の間に。
−引用終わり−

(途中の罵言は聞き流すとして)確かにひと月では短いように思える。
しかし、この「ひと月」という期間は果たして正しいのであろうか。
「それは一箇月前に突然どこからか連れて来た、」と地の文で説明している以上、これは事実とせねばなるまい。
だがコーリャ自身は次のように言っている。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」
「あのとき、すぐに」というのは、「ジューチカが失踪した後すぐに」ということであろう。
だとすれば、コーリャが犬を見つけたのは二ヶ月以上まえだったことになる(失踪がいつ頃のことか、はっきりは確認できなかったのだが、石投げ事件が二ヶ月前、へちま事件がその一週間前、ジューチカ事件はさらにその数日前である。二ヶ月半程度だろうか)。

つまり犬を発見してから自分の家に連れてきて飼い始めるまでに、約一ヶ月の間があることになる。このギャップをいかに捉えるべきだろうか。
もちろん、単にコーリャが嘘をついたか、言い間違えただけかもしれない。または「あのとき」が一ヶ月ほど前にあった何か別の契機を指しているのかもしれない。

しかし、次の可能性も考えられる。

もし、二ヶ月ほど前ににコーリャが発見したのがジューチカの死骸だったとしたらどうだろう。そしてその特徴にあう犬を見つけ出し、同じ箇所に傷を付ける。
その傷がある程度癒えるまでの一ヶ月間は、誰かの家に預けておき、その後自分の家に引き取ってさらに一ヶ月待つ。

こう考えれば、コーリャがせっかく見つけたジューチカを隠して飼い、芸を仕込んでから披露する、といういかにも不自然な行動にも説明が付く。傷口が新しいうちは他人に見せるわけにはいかなかったのである。
また、眼や耳を傷つけられて人間を怖がっているだろうペレズヴォンを、人に馴らす時間も必要だったろう。芸は目的ではなく、人に馴らす過程における副産物にすぎなかったかもしれない。

また、犬(の死骸)の発見が二ヶ月以上前だとすれば、先に疑問を呈した、発見者がよりによってコーリャだったという偶然も、蓋然性が高まるはずだ。他の子供たちや父親がジューチカを探し始めたのはもっと後のことだからである。
(ただし、他の子供たちが探し始めたのがいつ頃からなのか確認できなかった。もしかしたら一ヶ月前だろうと二ヶ月前だろうと同じことなのかもしれない。)


いかにも無理筋と思われるだろうか。
確かに、『カラマーゾフの兄弟』が完結した小説なら、わざわざこんな裏設定を考えるのはどうかしているかもしれない。
しかし、十三年後のアリョーシャが主人公の続編が構想されていたことを思えば、ありえないとは言えないはずだ。

ドストエフスキーが推理小説的な手法を屡々用いたことは指摘するまでもない。
いかに鋭敏な読者であっても、ドミートリイが胸をたたく動作の意味を見破ることは出来なかったはずだ。いや、そこに謎が存在することにすら気づかなかったろう。
スメルジャコフの不可解な言葉、父の元に忍び込んだドミートリイの、直前で断ち切られた描写。
(今は思い出せないが他にもたくさんあったはずだ)
数々の謎とその解明によって、世界の意味を多層的に構築していく−−ドストエフスキーの得意とするところである。
アリョーシャと少年たちの一件が、続編のためのプロローグ的役割を持っていたとすれば、正編と続編にまたがって謎解きが行われたとしても不思議はないだろう。
コーリャ・クラソートキンの思想と性格を読み解く過程で、ジューチカとペレズヴォンの一件の真相が語られる予定だったのではないだろうか。

それにしてもコーリャはなぜ偽のジューチカを仕立て上げるようなまねをしたのか。私は彼の心理を説得的に描き出すことは出来ない。だがそれは私に想像力と筆力が欠けているからにすぎない。
ドストエフスキーならば出来るだろう。子供の残酷さと無邪気さを余すところなく描き出した作家である。
いや既に「思想」を持ち出したコーリャを子供の一人として扱うことはもうできぬのかも知れない。一人の人間の中で善と悪が、美と醜が激しくせめぎ合うさまを描き続けたドストエフスキーの筆は、容赦なくコーリャを腑分けすることであろう。
たとえばイエスによる死者の甦りと絡めて・・・などという妄想はここでは控えるが。コーリャの「思想」にも合わないだろうし。

ここまで書いた文を見直すと、ペレズヴォンは別の犬である、というのがわたしの主張のようだが、そういうわけではない。「どちらか分からない」というのが本音だ。
むしろ、完膚なきまでに「別の犬説」を論破してくれる人がいれば、その人に感謝することだろう。


他の人の意見は読まないようにしてこの記事を書いたのだが、検索すると次のようなものがあった。
清水正ブログ 意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載2)
121 - ドストエーフスキイ全作品を読む会

山城むつみ氏の『ドストエフスキー』は読んでおいた方がよさそうだな。



「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する 」(光文社新書) 亀山 郁夫 著
以前に書いた感想を再掲)
 果たしてアリョーシャ・カラマーゾフは皇帝暗殺犯となるのか。これまでの諸研究や証言をふまえて続編の内容を空想する。空想の元になる材料が少ないから、目から鱗が落ちるような解釈は無かったけれど、これまでの諸説をまとめてくれたりしてるのでありがたい。
 また、『カラマーゾフの兄弟』執筆とテロ事件との関係を時系列的にまとめたりもしている。

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2012年07月10日

山田五十鈴さんが亡くなった


山田五十鈴さんが亡くなりました。

溝口健二監督の『祇園の姉妹』(1936年)を見たときの驚きは忘れられません。
映画自体も素晴らしく、大好きな映画の一本となりましたが、特に、当時まだ10代の山田五十鈴の堂々たる演技には圧倒されました。
あれを演技と言っていいものか、その存在、たたずまいが、一人の人間がここに確かに生きている、とはっきり感じさせてくれました。
役者の演技に「衝撃」といってよいほどの強い印象を受けたのは後にも先にもあのときだけではないかと思います。

それまで「昔の女優の一人」という程度の認識しか持っていなかったのですが、それ以来、もっとも尊敬する映画人の一人となりました。

ご冥福をお祈りします。


posted by 読書家 at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月06日

『アメイジング・スパイダーマン』 マーク・ウェブ監督


ついに、あのスパイダーマンが別人になって帰ってきた!

ちょっとリブート早すぎないかな、と思わないでもないけど、シリーズが進むとすぐマンネリになるから、このくらいで仕切り直しというのも悪くないか。3作目はいまいちだったし。
でもあまり楽しんでは前シリーズのメンバーに申し訳ないな、と若干の後ろめたさを感じつつ鑑賞した。

悪くなかった。でもそんなには楽しめなかった。中途半端な感じがした。

お話は、まあ前シリーズの1作目と大して変わらない。
新味を出しつつ、かつ従来のファンも満足させるというのはかなりハードル高かったかな。

ユーモアに乏しくて、暗め。
恋愛要素が濃いのは前シリーズと同じだが、リアルな青春映画みたいな雰囲気で描かれるのでちょっと戸惑った。
私がスパイダーマンに求める恋愛は、三角関係でどきどきしたり、正体を隠すために誤解されてしょんぼりしたり、もっとベタなラブコメ的展開なのだ。(ラブ米って誤変換されたけど、どうですかね、この米)

たぶん、前シリーズと比較するのをやめれば、この映画の魅力をもっと見つけられるのかもしれない。

でもグウェン・ステイシーって、私の恋敵じゃないか! いや違う、メアリー・ジェーンの恋敵じゃないか!
同じような話を相手を取り替えて繰り返すってどうなのかな。
原作だとステイシーの方が先なんだっけ。原作ファンにとってはグウェンこそスパイダーマンのヒロインという位置づけなのかな?
映画から入ったわたしにはMJこそ恋人なのだが。前シリーズを完全に断ち切るのはむずかしい。
いずれにせよ原作だと二人とも殺されちゃうんだったっけ、確か。
どこかであらすじを読んで、結構ショックを受けたのだ。(ウィキペディアには違うこと書いてある。記憶違いだったか)

ヒロインがあまり可愛くないのはスパイダーマンの伝統なのかな。リアルで良かった。
ピーター・パーカー役の子も、写真見たときは美男子すぎるとおもったけど、よく見ると変な顔だ。

肝心のアクションシーンはやや迫力不足。
ビルの谷間を飛び回るシーンにもあんまりダイナミックさがなかった。夜のシーンが多いせいか。
闘いにおいても、小刻みな糸玉攻撃が多くて、なんだかちまちましている。
もっとも、わたしが見たのは2D字幕版。
「2Dで十分ですよ! 分かってくださいよ!」といいたくなる映画が多いのでめったに3Dは見なくなった。

日本版のエンディングテーマとして日本語の歌が使われている。
こういうことは厳に謹んでいただきたい。
歌自体は悪くなかったんだけど、やっぱりオリジナルのままでやってほしい。
と思う人がほとんどだと思うんだけど、わざわざ差し替えるってことは喜ぶ人が多いのだろうか。
洋楽は売れないのでタイアップできないから?
配給会社のやることって謎が多いよなあ。
posted by 読書家 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『カラマーゾフの兄弟』 イワン・プイリエフ監督

『カラマーゾフの兄弟』
【原題】BRATYA KARAMAZOVY
【監督】イワン・プイリエフ               
【出演】ミハイル・ウリヤーノフ、キリール・ラヴロフ、アンドレイ・ミヤフコフ
【原作】ドストエフスキー    
  〜1968年 ソ連 モスフィルム制作〜                                       


NHK衛星放送で三日に分けて放送された物をまとめて見た。
面白かった。でもせっかく三部作にわけたのだから、もっと長尺にしてほしかった。
三部あわせても4時間弱。当然、原作の内容は大幅に削除されている。

完全な映画化はもともと期待していなかったのでとくに不満は感じなかった。
中心となる殺人事件に絞って脚色しているので、一本の映画としてよくまとまっていて、最後まで緊迫感があった。
どこまで原作の再現を求めるかによって評価が変わるように思うけど、わたしはかなり好きだ。

短縮はしているけど、改変はあまりないと思う。もっとも小説をはっきり憶えているわけではないので自信はないが。
俳優はイメージどおりとはいかなかったけど、熱演。わたしのイメージが正しいわけではないし、これはこれでよいと思う。
映像は特に美しくない。モノクロの方が良かったかな。
でもきっと時代考証はちゃんとしているだろうから、服装とか部屋の内装とか、小説を読む際の参考になる。

第二部なんかは感情が高ぶってしまって涙に暮れながら見た。ミーチャがグルーシェンカを追ってモークロエ村に行くあたりとか。
原作を読んだときの感動が甦ってきた。

子供たちのエピソードは丸ごと削られている。コーリャもイリューシャも、犬のジューチカも出ない。
二等大尉スネギリョフが「見ましたか、見ましたか!」と叫びながら二百ルーブリを踏みつけて泣くところもない。
イワンの長広舌も短縮されている。猟犬にかみ殺される男の子の話はあるけど、便所で「神ちゃま」と祈る女の子の話はない。大審問官の話もないし、アリョーシャの接吻もない。
裁判も大幅に短縮。イワンの乱心ぶりは大げさじゃないかなあ、と、そこでちょっと冷めてしまった。でも原作読み返したらそんなには変えてなかった。


ドストエフスキーの他の映画化作品を思い出すままにあげてみよう。

アンジェイ・ワイダ監督の『悪霊』。
かなり省略されていたけど雰囲気が良かった気がする。

ルキノ・ヴィスコンティの『白夜』。時代を現代に移し変えて映画化。
これは原作を読んだ直後に観たので「違う、そうじゃない!」と不満が募ってしまった。
また見直してみようかな。

ヴィスコンティは『地獄に堕ちた勇者ども』でも、『悪霊』のスタヴローギンの少女陵辱シーンを描いている。それにしても凄まじい映画だった。映画でドストエフスキーに匹敵するものがあるとしたらこれじゃなかろうか。

黒澤明の『白痴』は北海道を舞台に。「フィルムを切るなら縦に切れ!」 はこの映画だったっけ? かなりカットされてしまって残念。

あと黒澤明監督は『赤ひげ』でも、『虐げられた人々』のネルリのエピソードを組み込んでる。

『白痴』はジェラール・フィリップ主演のものもあったな。やや印象が薄いけど、端正に作られていたような気がする。

エミール・クストリッツァがジョニー・デップ主演で『罪と罰』を撮るとか言う話を以前に聞いた憶えがあるけど、今となってはありえないか。
検索したらこんな記事が。
The Voice of Russia「ドストエフスキー生誕190年 作家の人物像の映画作品」
「セルビア人映画監督のエミール・クストリッツァは『私の友、フョードル』と題した長編小説の執筆を終えようとしている。内容は『罪と罰』についての映画を撮ろうと夢見る映画監督についてで、監督にはそのための資金がない。ところがそこに、殺人を行うなら資金を提供しようという申し出がなされる。」

きっとソ連でもっと作られているんだろうけど、観る機会がない。
『少年たち「カラマーゾフの兄弟」より』という映画もあるそうだが、未見。http://movie.goo.ne.jp/movies/p16328/index.html
posted by 読書家 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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